関東地方では、6日に積雪5㌢を超える雪が降り、野山一面銀世界となり、まさに「冬本番」というところですが、8日(土曜日)に熱海市の中心部を流れる糸川沿いで「あたみ桜糸川桜まつり」が始まり、続いて20日には伊豆市土肥区で二番目早い「土肥桜まつり」が開幕するなど一足も、二足も早い春が訪れます!「1月の桜まつり」と言えば「沖縄県の桜(カンヒザクラ)まつり」が定番でしたが、2010年から熱海市で、続いて2016年からは伊豆市土肥地区でも「桜まつり」が開催されるようになり、伊豆でも1月に早咲きの桜を楽しむことができるようになりました。さらに2019年には、熱海市の桜まつりの開催日が1週間以上前倒しになり、名実ともに日本で一番早い「桜まつり」を楽しむことができることになりました!
お花見で一番気になることは、「いつが見頃なのか?」です! 誰もが一番の見ごろにお花見をしたいと思いますが、なかなかちょうどいいタイミングで花見をするのは難しいことですが、推測してみました?
例年、熱海市役所のホームページ内に「あたみ桜開花情報」が掲載されています。また、熱海市観光協会ホームページには1月6日現在の開花状況が載っていました。これらを資料として今年の見ごろ開始日を推定してました?
見頃は昨年と同様でしょうか?
伊豆市観光協会土肥支部のホームページでは、「土肥桜の見どころ」の開花状況を随時アップしています!同ホームぺ―ジに載っていた昨年と今年の万福寺境内の桜を比較しました! 昨年1月6日の開花状況は「3分咲き」とありました。今年は、1月4日には「3分咲き」7日は「5分咲き」、13日には「満開」とありました? このまま推移すると、今年の「土肥桜」の見ごろは、「万福寺及び土肥神社は15日ころから?全体では、20日ころから見ごろとなる?」と推測しました!。
伊豆には「あたみ桜」、「土肥桜」だけでなく「河津桜」を筆頭に多くの「早咲きの桜」が生まれています。修善寺では「修善寺紅寒桜」が知られていますし、伊東市では「伊東小室桜」が発見されています。松崎町でも「修善寺寒桜」のルーツではないかと言われる「紅寒桜」や「お吉桜」、「湊桜」などが咲いています!さらに伊豆地域の生まれではありませんが、「大寒桜」も3月初旬には咲き始めます。まさに伊豆は「早咲きの桜」のワンダーランドと言えるでしょう!
熱海市中心部を流れる糸川の市役所近くに架かる御成橋から河口近くの渚橋までの間、凡そ300㍍の両岸に58本の「あたみ桜」が植えられています。中央付近の糸川橋の左岸袂には開花情報等を判断する「基準木」があります! 写真は糸川橋からの上流方向です!
下多賀駅と熱海高校を結ぶ歩道につけられた名前です。日本で3番目に早い(沖縄県・本部町「もとぶ八重岳さくらまつり」開催日と同日です)あたみ桜の「四季の道桜まつり」が1月22日(土)から開催されます。熱海高校寄りの約300㍍ほどに87本のあたみ桜を中心ヒマラヤ桜及びソメイヨシノが植えられています。付近に駐車場はなく、まつり期間中の土日には国道沿いの浜辺の駐車場との間にシャトルバスが運行されますが、平日はありませんから徒歩での往復になります?
松原公園・北西端の展望台からの全景です! 松原公園が「土肥桜まつり」メイン会場となっており、イベントはここで開催されます! 紅種、白種がともに植えられていますが、若木が多いので、これからが楽しみです。駐車場は、大きなスペースが確保されています。恋人岬、里山園地、旧南小記念広場及び丸山スポーツ公園を除く万福寺や土肥神社など土肥地区の見どころは、公園から約1km圏内にありますから、時間を気にせずゆっくりと桜見物ができます!
恋人岬の「土肥桜」は、駐車場の南側の斜面に広がる土肥特産の「白琵琶畑」内の道の両側200㍍ほどに植えられています。桜を下に見ながらゆっくりと下り、帰りは桜を見上げながらゆっくりと鑑賞することができます。花は、年々勢いが増しており、駐車場から見下しても「絵になる」ようになってきました。桜が終えると、国内ではここだけにしかない白琵琶畑に変身、6月まで厳重に管理されています
伊豆総合高校土肥分校から南東へ500mほどの、山川の支流横瀬川左岸の道路沿いに100m近い「桜並木」があります。花に勢いがあり、見事な桜並木を作っています! 何よりも嬉しいのは、桜並木が恋人岬や里山園地などのように傾斜地ではなく、平坦な道沿いにあるいうことです。パンフレットの「見どころ」には載っていませんから、「知る人ぞ知る見どころ」です。残念なのは、駐車場がないことです?
西伊豆町の「土肥桜」の見どころは、3カ所あります。最も綺麗なのが仁科川左岸滝見観音堂付近です。仁科川の海名野橋から1㎞ほど上流の岩谷戸橋までの間に土肥町時代に譲り受けた苗木を50本ほど植えたものだそうですが、残っているのは右岸の岩屋戸橋寄り付近との2カ所になっています。安城岬ふれあい公園の土肥桜、さみしい姿になっています? 諸々の事情があるのでしょうが「貴重な観光資源が・・・」と残念に思います。
伊東市の伊東駅西側にある元李王家別荘跡地のこぢんまりとした小高い丘を含む公園です。丘の上部には木下杢太郎記念館があります。寒桜は、遊具がおかれた北側広場、トイレ脇や南側入口付近ではないかと思われます。あたみ桜や土肥桜同様1月下旬には見頃を迎えます。園内の小高い丘を登るとその先に「桜寺」と呼ばれる「松月院」があります。境内や駐車場の寒桜は、やはり1月下旬に見頃となります?
河津町の「河津桜まつり」と南伊豆町の「みなみの桜と菜の花まつり」は、日程がこれまでより繰り上がって2月1日に始まります! 同じく函南町の「かんなみの桜祭り」も昨年からすこし繰り上がりました。近年、桜の開花が早まっていることによるものだと思いますが2022年は、開花が平年並みか少し遅れ気味で推移しているように思われます?
函南町・柿沢川沿いの桜並木は年々綺麗になっています!「かんなみ桜の会」が2001年から柿沢川の堤の上に約410本の「河津桜」を植えてきました。植え始めて20年、木が年々大きくなり花にも勢いがあります。2005年に始まった「かんなみの桜まつり」も今年で18年目を迎えます? 畑毛せせらぎ公園を中心に上流の駒形橋から下流の榎橋までの間の堤上又は堤下に1.5kmほど続く桜並木は見ごたえがあります。また、祭り期間中は臨時駐車場も用意されています!
大仁地区の、対岸に城山を間近に見上げる狩野川堤防に141本の城山桜(河津桜)の並木が続いています! ここには「長嶋茂雄ランニングロード」というモニュメントがあり、長嶋氏が現役当時の昭和40年代、冬の合宿でランニングに利用したコースと記されています。このモニュメントから南側へ500mほど続く伸び盛りの桜並木は、早春の日差しに輝いて見事です!
河津町沢田の涅槃堂裏の桜見晴台から望む河津川沿いの桜並木です!河口から4㎞ほど上流の峰小橋から河口まで続く姿は、「河津桜発祥の地」らしい堂々と貫禄のある光景です!まるて「ピンク色の龍が海へ向かっているかのように見える桜並木」です?
天城峠トンネルを抜けて下ってゆくと、徐々に河津桜を目にするようになります。ループ橋に差し掛かると右側の斜面に河津桜を感じながら下ります。この桜を見るには、ループ橋を下って河津七滝方面へ左折して、見事に咲く「上条の桜」の前を進んでループ橋の輪の中の駐車場へ向かいます!駐車場から見上げる斜面一杯に植えられたピンクの河津桜とループ橋が作り出す光景は、川沿いの桜並木にはない「山の河津桜」の素晴らしい美しさを見せてくれます!
温泉で知られる下賀茂地区を流れる青野川の町役場から少し上流の前原橋から、道の駅「下賀茂温泉 湯の花」より下流の宮前橋まで土手沿い凡そ2.2kmに約800本の桜が植栽されています! 1980年代後半から植え始められ、40年近い樹齢の木々も多数あり、「いまが盛り」とばかりに濃いピンク色を纏った艶やかな姿を見せています! 南伊豆町では、すべて「さくら」と表現していますが「河津桜」です。そして、発祥の地である河津町の桜並木に負けず劣らず美しさです! 宮前橋から1kmほど下流の日野(ひんの)地区には「桜」とともに「まつりを担う菜の花畑」が広がっており、「ピンク色の桜」と「菜の花の黄色」のコラボレーションを楽しむことができます!
松崎町の桜と言えば、那賀川沿いの6㎞にも及ぶ「ソメイヨシノの桜並木で有名ですが、実は河津桜の「隠れた穴場的見どころ」があります。雲見温泉の「雲見入谷バス停」の先で国道136号線はアピンカーブを繰り返して急登します。このヘアピンカーブの斜面に20本近い河津桜が植えられています。ここの河津桜は、西伊豆の温暖な気候によるのか(?)本家の河津町より4~5日早く見ごろを迎えます!桜は、見上げるだけでなく、上の道から見下ろすこともできます。「河津桜を1日でも早く楽しみたい」という方々には最適の見どころです!
「伊東小室桜」は、1988年伊東市の萩原農園、萩原直義氏によって同市小室山の中腹で発見された桜です。花の色は淡紅紫色ですが、河津桜に比べてやや薄い色をしており花弁が大きいのが特徴です。見頃期間は2月下旬から3月上旬で、河津桜から見ごろを引き継ぐように咲くのですが、近年は2月中旬に見ごろとなる年もあるようです? 2001年「日本花の会」により、カンヒザクラとオオシマザクラの雑品種で「新種の桜である」と確認されました。「母樹」は萩原農園にあり、2008年「伊東小室桜」と名付けられています。市内全域に、2000本近くが植栽されていますし、小室山公園では150本以上が駐車場周辺とレストハウス裏の小室山の山腹一帯に植えられていますから、遊歩道を歩きながら楽しむことができます。見どころとして母樹のある萩原農園や富戸地内の県道111号線沿いにも50本以上が植えられており、見どころとなっています!
修善寺寒桜の原木は、修善寺境内にあります。河津桜同様にカンヒザクラとオオシマザクラの雑交配種と推定されています。花は中輪で、カンヒザクと寒桜の中間程度のかなり濃い紅紫色です。境内に5本、温泉街にも数本あります。原木の脇の「伊豆市に桜を植える会」が立てた樹名板には「平成18年2月この原木より接ぎ木して修善寺寒桜の若木を育てています」とありました。
松崎町石部の「禅宗院」にも紅寒桜」があります。原木は2代目で初代からは70ほどが経っています。2月下旬、河津桜に似た濃いピンク色の花咲かせます。修善寺寒桜と似ており「ルーツは、禅宗院の桜ではないか」ともいわれています?
「佐奈田霊社」は、石橋山の合戦において、頼朝方の先陣であった佐奈田与一義忠の遺骸を葬ってある「与一塚」の傍らに与一を神霊として祀っている神仏習合のお社です。少し南には、同じくこの合戦で敗死した与一の郎党文三(豊三)家康を祀った「文三堂」があります。吾妻鏡には、合戦10年後の1190(建久元)年頼朝が伊豆山権現参拝の帰り、古戦場を訪れ、落涙したとあります。石橋山古戦場を回るのなら、霊社を東側にある駐車場をに車を止め、参拝した後に歩かれるとよいでしょう!
「石橋山の合戦」について「吾妻鏡」には「・・・廿三日 発卯 夜に入りて甚雨沃るがごとし。・・・武衛、・・・相率いて相模國石橋に陣したまう。ここに同國の住人大庭景親・・・三千余騎の精兵を率いて、同じく石橋山の邊にあり。両陣の際、一谷を隔つるなり。・・・」と書かれています。古戦場全体を見渡せる場所は少ないのですが、立って見わたしてみると、「吾妻鏡」の記述に疑問がわきます。今はミカン畑になっている古戦場は、全体が急峻な斜面が重なっており、「どこで頼朝軍三百と大庭軍三千が対峙し、戦闘になったのか(三百対三千という数字が、誇張された数字であることは明白ですし、その他の記述にも誇張や装飾そして転記ミスが見られいます)」「まともな道などあるはずのない急峻な山中をどうやって頼朝達は逃げ回ったのか?」など、疑問が沸々と湧いてきます。ですから、蜂起以来、安房へ逃亡するまでの間の経緯も含めて、あまたの「専門家の論文や発言」、吉川英治氏以下の「源頼朝」関連の小説でも「この古戦場全体を見ているのだろうか?」と思ってしまいます。頼朝の蜂起から始まる鎌倉幕府の草創期を楽しむために、まずは石橋山古戦場を見下ろすことをお勧めします!
古戦場への道は狭くて急こう配でなおかつ急なカーブが続く地域の人たちの生活道路兼農道です。さらに古戦場には駐車場もありません。急坂のアップダウンを歩くことを前提に佐奈田霊社の駐車場をお借りして歩かれることをお勧めします。
伊豆山神社は明治元年の「神仏分離令」後の名称です。それまでは「伊豆大権現」でした。社伝では、最初は日金山(熱海峠の近く)に鎮し、その後岩戸山(本宮山)に移り、836年現在の地に鎮座したとあります。平安時代から仏教者や修験者が修行を積んだ霊場であり、梁塵秘抄にも名前が載っている神仏習合の神社でした。吾妻鏡では、源頼朝は蜂起前月の1180(治承4)年7月5日に北条屋敷に伊豆山の覚渕を召して相談してます。また、同年8月18日には、同じ伊豆山の妻政子の御経師である法音尼に勤行の代行を依頼しています。なお、頼朝が伊豆山に帰依したのがいつからでたのか時期は不明です。政子と知り合ったのち、これも期日は特定できませんが、頼朝は伊豆山へ逃げており、政子は頼朝を追いかけて伊豆山に向かっています。石橋山の大敗後、頼朝が安房へ逃げのびた旨の報告を政子は伊豆山で聞いています。鎌倉幕府を樹立後、頼朝は伊豆山を厚遇し、関東総鎮守として戦勝祈願の社としています。しかし、豊臣秀吉の小田原攻めに際し北条氏の側についたことから、社殿などを焼かれており、文書や記録の類が残っておりません!
湯河原駅前に土肥實平夫婦像が建っており、「土肥實平館跡(場所は特定できていません)」との表示かあります。吾妻鏡には、1180(治承4)年8月20日「・・・伊豆國を出で、相模國土肥郷へ赴かしめたまうなり・・・」とあり、石橋山の合戦場へは23日に移動していますから、それまで頼朝軍は、土肥實平の館近辺に駐屯していたのでしょう? 實平は、石橋山の合戦で大敗を喫して椙山の中を逃げ回り24日に箱根神社へ逃げ、25日から安房國へ逃げのびる28日までを土肥郷周辺で支え続けました。彼なしに頼朝は「安房國まで落ちのびることができなかった」はずですから、實平は鎌倉幕府樹立における最大級の功労者と言えます! なお、もう一人の石橋山の合戦中の大功労者は梶原景時です?
1180(治承4)8月28日石橋山で大敗を喫した源頼朝は安房國へ逃げのびました。吾妻鏡の「1180(治承4)9月2日の項」に「御臺所、伊豆山より秋戸郷に遷りたまい・・・今日申の剋、土肥彌太郎遠平、御使として眞名鶴崎より参着す・・・」とあり、避難所を既に伊豆山から秋戸郷に移していた政子のところへ、頼朝は安房國へ向かった旨の報告をさせています。政子の避難場所である秋戸郷は、伊豆山神社から東南へ1kmほどの国道に面した地(伊豆山地内)に特定され、「北条政子・源頼朝ゆかりの地」と「秋戸郷跡」の標柱が立てられていますが、この地が「政子逃げ隠れた秋戸郷跡」であることを特定できる資料はありません?
源頼朝は、1160(永暦元)年伊豆の国へ配流されています。しかし、配流地については記述が残されておらず不明です。「吾妻鏡」にも「蛭島」とのみ記さているだけで場所を特定できる記述はありません。江戸時代後期「豆州志稿」を著した地元の学者秋山富南が、この地を「頼朝流刑の地」と考証、これを記念してが1790(寛政2)年韮山代官江川家の家臣により「蛭島碑」が建立されました。「豆州志稿」は出来上がったものの印刷はされませんでした。明治に入り萩原正平・正夫親子が1885年までに「増訂 豆州志稿」を版行した上、同年「秋山富南頌徳碑」を建てて氏の功績を讃えました。この碑には、遺跡 永暦二年 源頼朝公配流の地 蛭ヶ小島」と大きく記されています。韮山町当時(伊豆の国市への合併は2005年)の発掘調査では、弥生~古墳時代の遺構・遺物のみで平安末期の遺物は確認されていません。韮山町は案内板に「蛭ヶ島(源頼朝配流の地跡)」と記し「この辺りを韮山町四日市字蛭ヶ島と言い・・・兵衛佐頼朝配流の地と言われている。・・・」と記しています。2003年から2004年には、公園として整備を進められ現在に至っています。なお、「蛭ヶ島の夫婦像」は2003年、寄贈により建立されています。
鎌倉時代末期、北条氏の滅亡後に北条高時の母である覚海円城は、一族の女性たちと共にこの地に移り住み一族の菩提を弔うため円城寺を建立しました。その後、1460年(室町時代)それまで御所に使っていた国清寺を火災で失った堀越公方足利政知は円城寺を接収して御所としました。この時、寺域を大幅に削減されており江戸時代に廃寺となっています。1992~1993(平成3~4)年の発掘調査で中国製陶磁器やかわらけ平安末期から鎌倉時代初期の建物跡や井戸が見つかりました。遺跡の年代から時政の館と確認されました。1996年9月国指定の史跡となっています。なお、史跡は2021年3月までは、ロープが張られ立ち入り禁止でしたが、12月には、NHKの大河ドラマ放送に合わせたのでしょう整備され公開されています。
北條時政によって北条家の氏寺(奥州征伐の戦勝祈願のために建立が名目だった?)として建立され、義時・泰時の三代にわたって造営された寺院です。発掘調査により、現境内の東側に南塔の遺構が見つかっているほかに北側の住宅地を挟んだ500mほど離れた位置に礎石などの遺構が確認されいる上、同遺構と現境内との間に苑池の跡も発見されています、創建当時は、壮大な伽藍を持つ大寺院であったと思われます。しかし、室町後期の北条早雲の時代続いて豊臣秀吉の小田原征伐の際の二度堂宇を焼かれています。その後、江戸時代に再建されて現在に至っています。大御堂に安置されている5体の仏像は、創建当時の運慶作であることが判明し2013年、国宝に指定されています。また、境内には時政の墓があります
江戸時代後期に地元の学者秋山富南が著しながらも版行できなかった「豆州志稿」を、明治に入り萩原正平・正夫親子が1885年までに「増訂 豆州志稿」として版行していますが、その中で「北条義時館跡」について「南江間村町屋ニアリ、尋常小学校ノ敷地トナル」と記載されており、この公園周辺が義時の館跡と推定されています。吾妻鏡の、初見では北条小四郎とありますが、その後には、江間小四郎或いは江間四郎と記述されていることから、江間の地を分家相続したと考えられています。しかし、義時は、1180(治承4)年8月17日の蜂起以降頼朝に従い行動していることから、江間の館に住んだのは、蜂起までで配下とおもわれます?なお、義時は、1224(元仁元)年鎌倉で急逝しています。
北条義時が建立した寺と伝わっていますが、確認できる記録は残されていません。義時は、1180(治承4)年8月17日の蜂起以降頼朝に従い行動し、三代実朝在位時に2代執権となり、承久の乱では幕府を領導した後、1224(元仁元)年鎌倉で急逝し、吾妻鏡に頼朝の法華堂の東の山の上に葬られたとあります。 北條寺の墓は、本堂南の小高い丘の上に北向きに建てられています。墓の脇にある説明版には、「・・・長子の泰時らは、墓を建て追善の碑とした・・・」とありますが、泰時は3代執権であり、当時はすでに鎌倉に常住だったはずで、遺体のない慰霊碑であったのかもしれませんが経緯については不明です。
吾妻鏡には、1180(治承4)年8月17日夜、源頼朝は関東制覇へ向けて蜂起し、伊豆國目代山木兼隆館を襲撃とあります。一行は真夜中に、二手に分かれて一方は直接山木兼隆館へ向かい、一方は山木兼隆の後見人である堤信遠を襲撃した後に山木兼隆館へ向かうこととして出発しました。信遠を討ち取ったあと山木館攻撃に合流しました。激戦の末、兼隆を討ち取り館に火をつけて、北条屋敷の頼朝へ知らせました。吾妻鏡には、山木兼隆館は天満坂の上と記述されてるだけで所在地は推定地です。と特定されておらず、おおよその場所が判明しているだけです。おおよその推定地へ向かうと「この先の高台一帯が平兼隆館の跡です」という表示板があり、さらに進んでゆくと、突き当たりの左側(私有地)に「兼隆館跡」と記された大きな石があります?
伊東庄の豪族であった伊東祐親が大番役で上洛中に、三女の八重姫は流人源頼朝の最初の子である千鶴丸を生みます。千鶴丸が3歳になった時大番役を終えて戻った祐親は激怒し、平家への聞こえを恐れ家人に命じて殺害し、八重姫を同国の住人江間の小四郎に嫁がせました。さらに頼朝を討つべく郎党を差し向けましたが比企の尼の三女を妻としていた祐親の次男佑清は頼朝に身の危険を知らせ、頼朝は佑清の烏帽子親である北條時政の屋敷に逃れたと言います。その後の八重姫については入水自殺したとも北条氏や千葉氏と縁を結んだなどとさまざまに伝えられています。しかし、文献上、記録上、歴史書において八重姫及び千鶴丸に関する記述は「曽我物語」と「源平闘諍録」にあるだけで頼朝の流人時代の資料は他に歴史的事実との確認はできていません。
わずかに「吾妻鏡」には二か所、 1180(治承4)年10月19日及び1182(養和2)年2月14、15日の条に、祐親が頼朝を殺害しようとした所を、次男・祐清がそのことを告げて、頼朝が伊豆山に逃れたこと、挙兵後の頼朝に捕らえられた祐親が恩赦によって助命される所を「以前の行いを恥として」自害したことが記されており、頼朝と祐親の間に因縁があったこと認められます。
1199(建久10)年1月13日、源頼朝が急死しました。そして嫡男の頼家は同月26日満17歳で家督を継ぎ2代目鎌倉殿となりました。同年4月「吾妻鏡」によれば、頼家は「暗君」であった為、北条時政以下13人の有力御家人による合議制が敷かれ頼家による裁断が停止され、その後は、蹴鞠に熱中するなど遊興にふける日々が続き、後見者の梶原景時や近習者を次第に遠ざけられ、さらには蹴鞠も禁止されるなどの厳しい日々を求められていますが1220(建仁2)年7月には征夷大将軍に任じられています。しかし、1203(建仁3)年3月ころから原因不明の病に侵され始めたにも拘らず、5月比企一族の力を背景に復権を狙い、叔父である阿野全成が謀反を企てたとして殺害、さらには妻で叔母の阿波局も殺害を企てるなど、北条一族を抹殺すべく動いていましたが、7月に病が重くなり、8月には危篤状態に陥いるなど病状が悪化していました。これに対し北条一族と母政子は他の御家人たちをも巻き込み頼家及び比企一族との全面対決に勝利し、比企一族を滅亡させ頼家を修善寺に幽閉し、実朝を3代将軍につけました。修善寺に幽閉された頼家は、1204(元久元)年7月北条氏の手兵により殺害されました。享年21歳(満)、2代目鎌倉殿5年の短い生涯を終えました。残念ながら頼家の短い在位期間に特筆すべき事績は見当たりませんが、果たして吾妻鏡に記述されたような暗君であったかは疑いのあるところです。とはいえ、蜂起当初は蜜月が続いていた「蜂起の実力部隊」たる関東武士団と「蜂起の神輿」であった父頼朝との力関係が年々変化し、武士団の地位が低下し続けている不満に、武士団内の北条氏と比企氏との確執が絡み、蜂起を知らない若い頼家が理解できなかったため「暗君」扱いされたと思われます。頼家の墓は修善寺にあります。墓のそばには、母の政子が頼家の菩提を弔うために建立した「指月殿」があります。
電話の場合は 080-9536-4334 埼葛旅文化研究所
メールの場合は saikatutabibunka@gmail.com